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 と、思う。  徳川《とくがわ》蔵人《くろうど》元康《もとやす》——いうまでもなく後の徳川家康——は今年十八歳だった。  もう子どもがある。  義元の一族、関口|親永《ちかなが》の娘を、義元の計らいで娶《めと》ったのである。それが十五歳であった。元服も同時にした。  子は、この春生れたので、まだ半年ほどにしかならない。  彼が机をおいている居室にまで、時折、泣く児の声が聞えて来た。産後の肥立《ひだ》ちの悪い妻はまだ産室にいた。妻は児を産室から離さなかった。嬰児《あかご》の声は耳につきやすい、まして十八歳で父となった彼には、初めて聞く骨肉の声でもあった。  けれど元康《もとやす》は、めったに奥へは立たなかった。よく人のいう子の可愛さというような気持は、分らなかった。自分の心のうちを探してみても、どうもそういう愛情は、今のところ、乏しいというよりも見当らなかった。こうした自分が父であることは、子や妻へすまない気がした。 「……不愍《ふびん》な者ども」  と、思うたびに、惻々《そくそく》と胸のつまる心地がするのは、むしろ骨肉でなくて、岡崎の城に、年来、貧窮と屈辱に耐えている家臣たちの身であった。  強《し》いて、子を思えば、 「あれも今に、わしのような困苦と、辛い人の世の旅をしだすのか」  と、傷《いた》ましい考えの方が先立ってしまうのであった。  信長は、遠くを見て、語尾を唇に噛んだ。  仮に。  今川の上洛軍が、西上を決行する場合、どのくらいな兵力をもって来るか、信長は、もうあらかじめ、概算をつけていた。  彼の領有面積や、常備の兵数から、その留守居を引いても、おそらく二万から二万五千は欠けまいと思われた。  そこで、自身は?  と、胸のうちで比較してみると、全領土を挙げても、四千内外——そのうち四隣の国境や、留守組をひくと、千五百から二千の兵しか動かせないことが分っていた。
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