louis vuittonルイヴィトンモノグラムヴェルニドットインフィニティジッピーウォレット長財布ジョーヌm91571
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null さっきより本心からの答えだったからだろう、橙子さんはうん、と小さく頷いた。  そうして、やっぱり視線は窓の外に向けたまま話し始める。 「高所から見下ろす景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしい物と感じる。だがね、自分の住んでいる世界を一望した時に感じるのはそんな衝動じゃない。  |俯瞰《ふかん》の視界から得る衝動はただ一つ———」  衝動、と口にして、橙子さんは少しの間だけ言葉を切った。  衝動は理性や知性からくる感情じゃない。  衝動とは、感想のように自分の内側からやってくるものではなく、外側から襲いかかってくるものだと思う。  たとえ本人がそれを拒んでいようとも、不意に襲いかかってくる暴力のような認識。それを僕らは衝動と呼ぶ。では、俯瞰の視界がもたらす暴力とはなんなのか——— 「それは遠い、だよ。  広すぎる視界は、転じて世界との隔たりがはっきりと出来てしまうものなんだ。  人間はせいぜい自分の身の回りにある物でしか安心できない。どんなに精巧な地図があって自分がどこそこの此処にいる、という事実を知っていても、そんなのはただの知識でしかありえないだろう? 私達にとって、世界とは肌で感じ取れる程度の周囲でしかないんだ。脳が認めている地球の、国の、街の繋ぎ目なんてものを我々は実感できない。その繋ぎ目の場所に行かなくてはね。  そして実際、その認識の仕方に間違いはない。  だがあまりに広すぎる視界をもってしまうと、それにズレが生じてしまう。自分が肌で感じている十メートル四方の空間と、自分が見下ろしている十キロメートル四方の空間。そのどちらも自分の住んでいる世界であるのに、よりリアルとして感じ取ってしまうのは前者だ。  ほら、ここにもう矛盾が生まれているだろう? 自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを『住んでいる世界』と認識するのが本来は正しい。けれど、どうしてもこの広い世界に自分がいるのだという実感が持てない。  なぜか。それは実感がつねに本人の周囲から得られる情報に優先される物だからだ。ここに知識としての理性と経験としての実感が摩擦し、やがてどちらかがすり減り、意識の混乱がはじまる。 ——ここから見下ろす街はなんて小さいのだろう。あの住所にわたしの家があるなんて想像もできない。あの公園はあんな形をしていただろうか。あんな所にあんな建物があったなんて知らなかった。これではまるで知らない街だ。なんだか、とても遠い所まで来てしまったみたいだ——高すぎる視点はそういった実感を湧かせてしまう。  遠い所もなにも、今もその本人は街の一部にきちんと立っているんだっていうのにね」  高い所は遠い所だ。それは距離的にも解りきっている。けれど橙子さんが口にしているのは精神的な事なのだろう。