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ルイヴィトンヴェルニ長財布編集

 もっともこの戦争は、弱小国デンマークが、当時の大国オーストリアとビスマルクにひきいられた新興国プロシャの連盟のために、あっけなく敗れただけの戦争だったが、榎本がうけた衝撃は大きかった。 「弾丸雨飛の中を出入して、いわゆる文明国戦を実地にみた。この利益は大きかった」  と榎本は後年いっている。  墺普《おうふ》連合軍がデンマークに侵入し、シュレスウィッヒを陥したころ、榎本はその最激戦場を見た。  そのころの陰暦になおすと、歳三らが京都三条小橋西詰め池田屋に斬りこんだ元治元年六月五日前後であったろう。  新選組が京の花昌町に新屯営を造営して大いに威を張った慶応元年十月の当時、オランダでは榎本はウェッテレンの火薬廠で、火薬成分の研究をし、さらに幕府が買い入れるべき火薬製造機械の注文交渉をしている。  慶応二年九月十二日夜半、歳三が原田左之助ら三十六人を指揮して三条橋畔で土州藩士らと大乱闘をやっていたころ、榎本は、ロッテルダム市から約十里離れたドルドレヒトという小村にある造船所に詰めていた。  いま乗っている「開陽」が、数日後に竣工するまでになっていたからである。「開陽」ほどの大艦の造船は、オランダでもめずらしかったから、当時は新聞、雑誌がこの艦のことを書きたて、「果してこの艦を架台から無事、河底の浅いドルドレヒト河におろしうるかどうか、技術上の最後の苦心はそこに払われた」と雑誌ネーデルランス・マハサイが書いている。  これが無事、進水し、さらに両岸の風景の美しいメルヴェ河にうかびあがったときは、臨席した海軍大臣も、その付近の牛飼いも昂奮につつまれて歓声をあげた。  そのころ歳三は、鴨川|銭取橋《ぜにとりばし》で、薩摩藩に通謀した疑いのある五番隊組長武田観柳斎を斎藤一をして刀で討ちとらせている。 「どうも」  と歳三は、妙に照れながら椅子をすすめ、卓子《テーブル》にむかいあった。  榎本は腰をおろしたが、この男もどこか落ちつかない。  たがいに異邦人といっていいほど経歴がちがうのだ。 「船酔いは、されませんか」  と、榎本は話題がみつからないまま、あたりさわりのないことをいった。  歳三は、だまって微笑し、すぐこの男独特の不愛想な顔にもどった。
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